マスク 菊池 寛
副題が「スペイン風邪をめぐる小説集」だが、実際にスペイン風邪に関連した小説は「マスク」「神の如く弱し」「簡単な死去」の三篇。しかしその他も全て生と死を題材とした小説だ。
「マスク」を読むとスペイン風邪が流行した100年前当時の世相を庶民の目で知ることが出来る。菊池 寛は自分の身体が弱いこと、特に心臓が悪いことをしきりに嘆いていて流行性感冒に罹るとコロリと逝ってしまうと本気で思っていた。これは本当だったようで、ずっと後になるが彼の死因は狭心症だった。だから出来るだけ外出を控えガーゼを沢山詰めたマスク(当時の資料から政府も幾重にも重ねたマスクを奨励していたようだ)をし、外出から帰ると過酸化水素水で含漱(うがい)をした。流行性感冒が原因不明であったことを除けば庶民の対応は現代と変わらない。「マスク」はこの小説にぴったりの題名で、マスクを通して世間の風潮や自身の心の揺れが語られる。毎日の新聞に出る死亡者数のピークは3,337人だったようだ、かなりの死者数だ。3月に入ってから寒さが引いて行くに従って感冒の脅威も段々衰えて行って「もうマスクを掛けて居る人は殆どなかった。」・・・それまでは周囲がみんなマスクをしていたので自分の臆病さが露呈することがなく安心していたのだが、自分だけがマスクを掛けている状況になって「病気を怖れて伝染の危険を絶対に避けると云う方が、文明人としての勇気だよ。」などと弁解した。たまたまマスクをしている人を見出すと頼もしく同士のような気がした。猛威をふるっている感冒を怖れるのは当然としても、世間の目を人一倍気にする臆病者と言えなくもない、意外だ。本人はそれを認識していたようで、流行がおさまったのちも数千人のスタジアム観客の中でひとりだけ黒マスクの人を見つけてその勇気に嫉妬さえしている。
「簡単な死去」は新聞記者の同僚「あの元気のいい、調子外ずれの気焰家の沢田、少しでも自分より位置のよいものを重役と呼んで、常に皮肉たっぷりの不平を洩して居る沢田、愚にも付かない駄洒落や警句などを云って得意になって居る沢田、それが何の前触もなく、突然に死んだこと」を題材としている。4、5日前まで元気だった沢田が流行性感冒によってポッカリと死んだ。生前の沢田を快く思っていた人はおらず、ポッカリと死んだことに驚きはしても誰ひとり悲しんだり気の毒に思う人はいない。お通夜に出席する人を籤引(くじびき)で決めることになったが、みんな当たりクジを引きはしないかとただただ恐々としている。流行性感冒で死んだ人のお通夜なのだから誰も行きたくないのは当然だ。しかしこれほどまでに冷淡に心の内を描写するのはなかなか困難なこと。現代なら四方から叩かれるかも知れない。
「船医の立場」の船医とは、ペリーの黒船に乗船していた外科医ワトソンである。吉田寅二郎(松蔭)と金子重輔(重之輔)が小舟で黒船に近づき乗船を直訴した話だ。副艦長ゲビスは「私は、有色人種の心の裡に、こんな立派な魂が、宿って居るとは知らなかった。その上、飜訳で読んでも、その原文が、どんなに明勁であって、理路が整然として居るかが分る。その頭脳の明晰さは、私にとって、一つの驚異であった」と語りワトソンも同意するが、ペリーは「日本の法律は、日本人の海外へ渡航するのを禁じている」ゆえ、日本と事を構えることに難色を示す。二人を乗船させるべきか否か会議が開かれるが、もともと乗船させる選択肢はなかったと思われる。しかし、心情的に彼等を納得させたのは重輔の皮膚病である。ワトソンは重輔が重い皮膚病に罹っていることを見つけ、船員がこの皮膚病に罹ったら大変なことになる。この理由を以って二人の青年の乗船を認めないことに自らを納得させたのである。
「忠直卿行状記」の底本は忠直卿警護の任に当っていた竹中采女正重次の記録であるらしいが真偽はわからない。この小説は映画化もされている。松平忠直(1595-1650)は、徳川家康の孫である。越前国福井藩(67万石)を相続したが、家臣の成敗など乱行を繰り返したため、元和9年 (1623年) 豊後国府内に赴かれ、後に同国津守に移されて1万石を給された。これがおそらく史実であるが、菊池 寛は一方的な肉付けをする。
忠直卿は幼い頃から大名の世継ぎとして家臣より甲斐甲斐しく教育され、心を害するような言動を受けることは決してなかった。体力的にも恵まれており外見上も誰よりも見劣りするようなことはなかった。
「剣を取っても、槍を取っても、忽ち相手をする若武士に打ち勝つ程の腕に瞬く間に上達した。彼は今迄自分を信じて来た。」、そうして殿様になった。
ところがある日「以前ほど、勝をお譲り致すのに、骨が折れなくなったわ。」と云う立ち話を聞いてしまう。「今までの凡ての生活、自分の持って居た凡ての誇が、悉く偽の土台の上に立って居た事に気が附いたような淋しさに、ひしひしと襲われて居た。」ここから忠直卿のただならぬ行状が始まる。彼は家臣を集めて槍術の大仕合を度々催したが、「忠直は偽の仕合にはもう飽いて居る。大阪表に於て手馴れた真槍を以て立ち向う程に其方も真槍を以て来い!主と思うに及ばぬ。隙があらば遠慮致さずに突け!」
家臣は仕合に負ければ主君の命に背くことになるが、勝てば主君を心身共に傷付けることになる。のっぴきならない状況である、逃げ道はない。二者択一と言っても君主に傷を負わせることは出来ない。止むなく偽りの勝負で勝ちを譲り切腹するのである。すべてに疑心暗鬼になった忠直卿は槍術だけでなくあらゆる勝負が偽りであるかのような錯覚に襲われ、家臣が次々と切腹していく。
これは家臣を乱暴に成敗するのとは性格が異なる。このようなことが本当にあったのかどうかはわからない。
短編小説集「マスク」には他に「神の如く弱し「身投げ救助業」「島原心中」「仇討禁止令」「私の日常道徳」が収録されている。